11月20日、日本橋のサイボウズ株式会社にて「第1回オープンソース歴史研究会」が開催されました。このイベントは、中央大学社会科学研究所の研究チーム「情報社会その成長の記録」が主催した公開研究会です。研究会には30名弱の参加者が集まり、日本においてオープンソースソフトウェアがどのように浸透していったのかというテーマで活発な議論が行われました。
まず、サイボウズの風穴さんによるご発表です。なぜ「FLOSS Storiesプロジェクト」を始めたのか、そこに込められた意味は何なのかというご発表から始まりました。
なぜこのプロジェクトを始めたのか、それは、UNIX、LinuxからOpenSourceへの流れがあるなかで、注目すべきところはLinuxがどうして発展していったのかに興味がある。ただし、OSSの前史としてのUNIXが辿ってきた道のりは無視できない。
UNIXは、異なるハードウェアでも共通のOSとして普及してきた。異なるアーキテクチャでソフトウェアを共有することができて、ソフトウェアの流通を促進した。
UNIXに関するキーワードとして「日本語化」がある。いろんなソフトウェアで日本語を、あるいは、ソフトウェアを日本語で、使えるようにするアクティビティがあった。しかし明文化された記録は少ない。そのころ携わっていた方々がだいぶご高齢になっているという危機感を持っている。UNIXでやってきたことをLinuxでも同様に行う動きがあった。ただし、UNIXと異なりLinuxは個人で活動することができた点が大きな違い。
最後に、タイトルに盛り込んだキーワードとして、なぜ「Stories」なのか?
それは、歴史 = 人の営み、である。その当時にやっていた人たちの記憶を書き留める。記憶 + 記録が重要。さらに、特定の人からだけでなく、できるだけたくさんの人から話を集めて、できるだけ客観的な情報収集を行う、それがStoriesの「s」に込められた気持ち。
続いて、飯尾によるOpenSym2015への参加報告。これは、FLOSS Storiesの中間報告を今年の8月にサンフランシスコで開催されたOpenSym2015という国際会議で発表してきたという内容を報告したものです。発表内容はSlideShareに置いておきましたので、興味のある方は、そちらの資料をご参照ください。
3件めは駿河台大学の八田先生によるご発表、「オープン概念の変遷」という内容です。
オープンソース・ソフトウェアのみならず、オープン・データやオープン・イノベーションなど「オープン◯◯」が流行っている。が、分野によって、オープンとは何を指しているのかという違いがあり、曖昧という問題がある。多くの場合はライセンスで定められるが、そうでもない場合もある。
また、「オープン」同士が衝突した例は多い。HTML5における動画に関する特許の扱い、Tivoソフトウェア、ASP Loophole、パラレル・ディストリビューションなど。 なお、ASP Loopholeとは、サーバサイドで処理するのでプログラムのコードは配布されていないからOSSライセンスが適用できないじゃん、ということ。パラレル・ディストリビューションとは、DRMのかかったメディアでの配布を禁止するよ派 vs 配布メディアを選択する自由を阻害派の闘争があり、DRMとそうでないメディア並行して配布すれば?それはそれでDRMを実質的に支持することになるじゃん、という展開になったこと。
さらに、一部プロプライエタリなソフトウェアの取扱いも問題であろう。
自分の気持ちとして、自分が使っているものは自分が制御したいというのがそもそもの発想。なぜそうなっているのかを理解せずライセンスを満たしていればよいとする形式的な発想はダメだ。DRMやブラックボックス化などむしろ問題はひどくなっている。ここらで「そもそも論」がいま必要になっているのではなかろうか。それが、FLOSS Stories PJ参加の動機のひとつ。
15分の休憩を挟み、後半は、VA Linux Japanの佐渡さんと、Vine Linuxの鈴木さんを迎え、八田先生をモデレータにしたパネルディスカッションが行われました。まずは、佐渡さんと鈴木さんの自己紹介からです。
まずは、佐渡さんから。
ドットコムバブルというものがかつてあった。1997年に伽藍とバザールという本がエリック・レイモンドにより出版された。1998年にはNetscapeのソースコードが公開される出来事があった。その後、「オープンソース」が生まれた。それは、Netscapeのソースコードをマーケティングする(うまい)戦略だった。
VA Linux社は、Linuxサーバ・PC販売としては頑張っていた、会社の規模としては「ぷらっとほーむ」規模だが、売上はIBM、HP、Sunなどと肩を並べていた。VA社では何でもフリーソフトウェアを使っていた。「オープンソース」をキーとして、資金調達したり、OSS界のリーダーとして頑張ったりしていた。
しかし、一点、ドットコムバブル破綻で「オープンソース」は悪者になってしまった。ただし、世間的には普及したといえる。
一方、日本では、ドットコムバブルの影響はあまりなし。ただしLinuxもあまり知られておらず、OSSの理解も怪しい。そこで日本Linux協会を作ってみた。
VA Linux Systems Japanの設立に住友商事が絡んできたので、「おいおい」と、それで日本法人を作ってみたら親会社が破綻、そこで一念発起して自分たちこそVA Linuxである、と頑張った。実際には、LinuxカーネルやOSS普及などに注力した。
日本で特筆すべきことは、経済産業省の動きと、Rubyというショウケースだろう。世界各地で「政府がOSSを推す」という流れが起きた。日本もそのひとつ。Rubyはわりと特殊なケースで、Linuxカーネルのコミュニティとも似ているかも。作者が松本さんという日本人だったのもラッキーだった。
続いて、鈴木さん。
JEからPJEというプロジェクトに参加したのが最初のきっかけ。JPCERTの眞鍋さんに連れて行かれた。その後、1998年からVine Linuxも、ずっとやっている。同じ頃から日本Linux協会に関与した。毎年交代で会長をやるという話だったが、自分が会長になってから誰も代わってくれない。コミュニティ参加は積極的に参加しているのではなく、なんとなく参加したらズルズルと参加を続けているという感じ。
大学時代は、TOWNS OSにGNUソフトウェアを入れて遊ぶなんてことをやっていた。Linuxが出て、面白そうだなと使い始めてから、今まで来ている。大学院時代はLinuxが虐げられていたのでBSDを使った。大学院を卒業して、1年後、SGIに移った。SGIのマシンでLinux関係を… その後RedHatへ異動した。
コミュニティ運営をちゃんとやっているかというとハテナではあるが、細く長く続いている。ポイントは「緩い」ということ。Vineにしても開発者は100人くらいいるがアクティブなのは10人前後、出たり入ったりしている。日本Linux協会は、Linux関連企業とコミュニティ関係者の両者が入った団体。普及啓発を目的としていたが、もう普及や啓発は終わっているでしょ?2010年頃に一般社団法人化した。今後はどうなる?
黒歴史はいっぱいあるが,ここでは話せない(笑)。技術的な対立はどうにかなるが、人と人との対立はどうしようもない。コミュニティがうまく回らない状況に陥っているのは、そんな状況が多い。自分が関わったプロジェクトはいつも「酒」ドリブン。「酒」でコンフリクトを解決できる。
この後のパネルディスカッションでは、佐渡さん、鈴木さんの経験について、より深く紹介があったり、お二人を取り巻いてきた環境や歴史について、日本でOSSビジネスがどう普及してきたか、コミュニティはどうだったかなどについての熱い議論が行われました。ときとして会場からもコメントや質問も起こり、たいへん濃い時間となりました。
パネルディスカッションの細かな状況はFacebookの公開グループ、「FLOSSの昔話をまったりと語るグループ」でも記録されているのでご参照ください。
最後になりましたが、会場をご提供くださいましたサイボウズ株式会社に感謝申し上げます。